2004.05.19付の「悪文の奨め」の反応集。と言い切ってしまうと失礼になりますが、以下色々と皆さまの一家言をご紹介しつつ私見を交えてみます。
小助氏のコメントより。
悪文を究め、そしてお花畑板で活躍するとか・・・
確かに、電波系の文章には悪文が多いですね。
実は私も一時期、電波系の文章を好んで読み漁っておりました。
ただ、私だけなのかも知れませんがわざわざ悪文を書こうとすると、これが結構難しいんですよ。
無意識に書くとどうしても意味の取れる文になってしまうというか。困ったもんです。いや、その方が良いのか。
半茶氏の「半茶」の040519付より。
単純に分類すると、意味がとりづらい文は悪文と言っていいと思うのですが、例えば普通の文脈の中でポンと悪文が放り込まれていると、読者はそこに引っかかって、なんとか理解しようと努力するあまり、強い印象をうけることになります。小林秀雄が得意とした手法だったと記憶しています。
更に言うと、川端康成のノーベル文学賞受賞記念講演のタイトルは「美しい日本の私」という何を指しているのかよくわからない悪フレーズだったし(美しいのは日本なのか私なのかこれだけではわからない)、大江健三郎の小説は悪文で有名でありますので、ノーベル文学賞をとるためには悪文を使いこなすことが必須なのかもしれません。と理系の乏しい知識で書いてみる。
確かに、悪文を効果的に使うとむしろ印象的という場面がありそうだということにはなんとなく思い至っていました。
単に長い文だと、単純に印象が弱くなりますが、文法誤り系の文だと短くできるので文章全体に対するアクセントとして使えそうです。
やはり文と文章とでは議論を分けて、文章の中での悪文の使い方を別途考察するのが筋の良い流れかも知れません。
あと、悪文はやはり文章の基礎というよりは応用だと思うので、悪文を使いこなせる人=文章技量のしっかりした人と言えるのかも知れません。つまり、悪文がノーベル賞の条件というよりは、ノーベル賞を取るような人は悪文が使えて当然というか。
下条氏の「くだらな日記」の5月20日付より。
小林秀雄の文章は、まず意味の通るちゃんとした文章を書いて、あとでひとつふたつセンテンスを抜いて、わざと意味が通らないようにするのだ、と言っていた人もいましたね。だれだったっけか。
なるほど。良文から悪文を生成するというのもアリですね。
いくら悪文での効果を狙っても、そもそもの文章全体が不味いと効果の程が活きてきませんから、まずはちゃんとした文章を書いておくと。
最初から悪文を交えながらで書き始めると文章の全体感が掴みにくくなりそうですから。
書き上がった文章を見渡して、一番の急所を悪文で攻めるというのは分かりやすくて実践しやすいかも知れません。
ろずまりん氏の「MEMO」の2004/5/21付より。
‘普通の文章’または‘良い文章’で内容がつまらないものよりは、面白い‘悪文’の方がいいかも。
web‘悪文界’の面々による「悪文祭」というのを思いつきました。文章全体の一部または全部に‘悪文’を用いること。全部を‘悪文’で構成する場合は特に、文章全体の意味が取れるように考慮すること。いずれの場合も、同じ内容の‘普通の文’には出せない‘悪文’ならではの効果が現れていること。さらに何らかの「縛り」を考えねば ……(自分の首を絞めそうだ。やめておこう)。ところで‘悪文’の定義って??
もちろん文章は内容が第一、技法は二の次ですから良文でも悪文でも内容次第というのは前提だと私も思います。
ただ、良文構成で内容の良い文章と悪文交じりで内容の良い文章との比較となると、私は甲乙つけ難いという気もします。どっちでも良いかなぁ。
良文構成で内容の悪い文と悪文交じりで内容の悪い文だと、悪文交じりの方がなんだか許せるような気もします。あくまで私の感覚ですが。まあ、その場合、文章の内容を本気に取ることには躊躇しますが。
悪文祭は、普段から悪文ばかりの私はどうしたらいいのか途方に暮れそうです。
ていうか、悪文の定義を決めないと単なるなんでもアリになってしまうので収拾つかないかも。
まだ、悪文をメインに据えるのは時期的に早いような気も。何時なら良いんだ?と聞かれると困りますが。
枕草子の桃尻語訳はどうなんでしょうね。訳の是非とは別に、枕草子自体が私の今までの論調からすると悪文に分類されてしまいそうですから……。