雨谷の日和

過去19年で2,600を超えるアニメの第1話だけは見続けた僕のお勧めアニメがハズレなはずがない

文章中の位置の役割分担

ここまで色々と文の並びを眺めてきて、個人的に気づいたところがあるのでメモ書きとしてまとめておく。


○先頭の文
極端なことを言ってしまえば、先頭の文こそが文章の主である。
読者は先頭の文を、無意識のうちに後続の文の前提条件として見なす。
従って、後続の文は先頭の文の印象に引きずられる。そこを基点に解釈が為される。
先頭に印象の強い文を置けば、文章全体が何らかの明確な主張に見えるし、逆に先頭に印象の弱い文を置けば、文章全体がのらりくらりとした曖昧な雑談のようなものに感じられる。
悪文の中で、違和感の強い種類のものを先頭に置いた場合、それはとても個性的で鮮明な印象を与えることになるだろう。


○最後の文
更に極端なことを言ってしまえば、最後の文は先頭の文と対となり、それが文章にとっての全てである。
真ん中など、どうでも良い。
先頭の文が文章全体を支配しているのなら、最後の文は読後のそれを制御している。
もちろん、読後感は文章全体の印象に大きく左右されるから、そこに先頭の文の影響は色濃い。
しかし最後の文は、その先頭の文の支配下にある印象に方向性を付けることができる。
読み終わった後の何がしかは、最後の文が醸成する。


○中頃の文
結局、中頃の文は先頭と最後とを結ぶ、厚みなのである。
従って、先頭の文よりも中頃の文の印象の方が強いと、読者はそこに違和感を感じる。
先頭の文からの印象を、最後の文がスムーズに引き継げないような、そんな中頃の文だった場合には読者は読み難さを感じる。
厚みには厚みの役割があり、中頃の文にはそれをしっかりとこなすことを、読者は無意識のうちに求めていると言ってもいいだろうか。
逆に、厚みの役割から逸脱した中頃の文には、その後のフォローのようなものが求められているとも言えるかも知れない。
伏線を埋め込んだり、ちょっとした違和感で読者を引っ張ったり、謎めいた雰囲気を演出したり、そうした細かなものを、中頃の文には盛り込むことができるのだろう。
先頭の文が文章そのものであり、最後の文がそれを制御するものだとするなら、中頃の文はそれらを彩る多様性なのである。


以上、私の今のところの個人的な感触を極論的にメモしておく。
後で読み返して、また意見が変わるかも知れないが、それはそれでまた別途書き記そうと思う。